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黄昏色の樹の下で

一章 九話

 それから数日、ウィスタは保管庫にこもっていた。全ての局から書類が運び終わったのだが、思うように作業が進まなかったからだ。

 目を血走らせて紙を手に薄暗い中をさまよう姿は、まるで魔族だ。

「薄暗い穴ぐらに住む魔族って何がいたか……あぁ、魔族全図がほしいな……まだ館には無かったはず」

 ブツブツとつぶやきながら外に出ると、太陽の光が強すぎて溶けそうだった。思わず道の真ん中でよろけると、後ろから歩いて来た人にぶつかった。

「これは失礼を!」
「いえ。こちらこそ」

 ウィスタがぶつかったのは、かるくカールした黒い髪に黒い瞳を持った、背がとても高い若い男だった。黒い薄手の薄手の外套から覗く絹の白いシャツと、宝石で造られたらしき大き目のカフスがアクセントになっていた。その身なりから、恐らく貴族と判断したが、残念ながら社交界に疎いウィスタは名前を知らなかった。

「あぁ、お持ちの書類が風で……!」

 あまりうまく頭が回っていなかったウィスタは、最初男が何を言っているのかわからなかったが、目の前で実際に紙が舞うと自分の手に持っていた書類が落ちて、何枚かが風に飛ばされようとしているのだということに気づいた。

「あぁ!大変だ!」

 慌てて飛んだ紙に飛びつく。ふと男の方を見ると、その高い背を利用して器用に飛ばされた紙を掴んでいた。

「これで全てでしょうか」

 手に書類を持って、男は心配そうに聞いてきた。
 そもそも自分の不注意でこの事態を招いてしまったウィスタは、いたたまれなくて身を小さくしながら 書類の枚数を数えていたが、一枚足りないことに気づいた。

「どうしよう!」

 真っ青になるウィスタに、男は落ち着いた声で慰め、そして何よりも探すのが先だと諭す。

「そうですね」

 しばらく二人で探していると、ようやく柵の向こう側の道にあるのを見つけた。その柵は細い蔦がからまった様なデザインが施されている、黒い鉄製のものだったが、とても高く、飛び越えるのは無理そうだった。
 ならばと、遠回りして反対側の道にまわろうとするウィスタを男は止めた。周囲を見回し、人がいないのを確認すると男は外套を脱いだ。

「持っていていただけますか?」

 そう言ってウィスタに外套を渡すと、するすると身軽に柵を上り、反対側の道に飛び降りた。 あっけにとられているウィスタに、柵の隙間から書類を渡すと、再び柵を上り戻ってきた。

「ありがとうございます。とても身軽なんですね」
「恥ずかしながら私は田舎育ちなので……」

 はにかみながら男は答えた。

「恥ずかしいなんてそんな。運動が苦手な私にとっては羨ましいです」
「ありがとうございます。でも、不作法なので内緒にしていてくださいね」
「もちろんです」

 そう言ってから、気がついた。元はといえば、ウィスタが道端でぼうっとしていたことで、柵を乗り越える不作法を犯す羽目になったのに、この男はあくまでも自分のために今回のことを内緒にしてくれと頼む。本当なら内緒にしてくれ、と頼むべきはウィスタの方なのに。
 その事に関して気づいたのは遅く、礼を言うタイミングを逃してしまった。どうしたらこの感謝の気持ちをうまく伝えられるだろうと、ウィスタがおろおろしていると、男の従者が駆けて来た。

「準備ができました」
「そうか、すぐに行く。――では、失礼しますね。お仕事頑張ってください」
「あ!はい。ありがとうございました!」

 慌てて「いまだ!」とばかりに大声で礼を言うと、男はおかしそうに笑い、そしてウィスタの頭を軽くなでた。

「今度は気をつけてくださいね……」

 と少しからかうように言うと、去っていった。
 撫でられた手の暖かさを思い出しながら、もしかしたら小間使いと間違われたのかもしれない、とウィスタは赤くなった。確かに、小柄でしかも着古した服を着ているウィスタは、知らぬ人が見たら局長などとは思わないだろう。それでも優しくしてくれた男に、恥ずかしながらもウィスタの心は暖かくなる気がした。

 そこでようやく、ウィスタは男の名前を聞き忘れたことに気づいた。

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