BackNovelTopHPTopNext

黄昏色の樹の下で

一章 二十六話

 マルテは間抜けにも濡れた地面に足を取られて洞窟の中に滑り落ちていた。幸いなことに怪我はなかったが、出口の光が高くて遠くてげんなりとしていた。

「暗いから見にくいな……これは戻るのは大変そうだ」

 手で足を引っ掛けられそうな場所を探していって這い上がるも、暗い上にすぐに細かい砂や濡れてつるつるした石で滑り落ちてしまい なかなか進まない。
 しばらく這いつくばるようにして出口へと向かっていると、どこからか低い音がした。

「ん?何の音だ……?」

 何の音だろうと、耳をそばだてているといきなり声がした。

「マルテ!いる?」

 イリナだった。

「な、なんでイリナ殿がここに!」

 ウィドと一緒ではなかったのかと、イリナの周囲を隠れて嗅ぎまわっている自覚はあったマルテは突然のイリナの出現に冷や汗を感じていた。

「マルテ、落ち着いて聞く。土砂崩れ、くる。ここきっと危険」
「なに!?」
「そこ、マルテ、一人?」
「ああ」

 ふと、淡くゆれる光がどんどん近づいてきた。それはイリナの持っていた松明だった。

「マルテ、急ぐ」

 イリナが手を伸ばして斜面の上からマルテの手元を照らしたおかげで、周囲を見ることができた。つかめそうな岩やでっばりに しがみついて登っていき、やっと立って歩ける比較的緩い斜面まで戻れた。

「すまない。ありがとう」
「うん。急ぐ」

 イリナとマルテが入り口へと早足で向かおうとしたとき、再び先ほど聞いた低い音がした。

「もしかして、これは地鳴りか?」
「うん」

 歩きにくい道に足を取られながらも転げるようにして洞窟を出ると、暗い洞窟の闇に慣れていたマルテは、外の強い光に目を細めた。
 イリナはすぐに手にしていた松明を地面に置いて砂をかけ、足で踏んで火を消すと、突然マルテを背を向けた。

「乗る」
「え……えぇ?!」

 これは背中に負ぶされということだろうか。しかしどう見ても、イリナの背丈も横幅もマルテの3分の2ほどしかない。見るからに頼りない背中を見ながら戸惑っていると、焦れたようにイリナが振り向き、マルテの胸倉を掴んだ。

「っ?!」

 その細い腕に似合わない強さで引っ張られ、マルテはあっけなく体勢を崩した。そして素早く背を向けたイリナに倒れこむように肩にもたれかかった。すぐさまイリナがマルテの両足を抱え上げると、落とされないようにとマルテは思わずイリナの肩を掴んでしまい、不本意ながらもマルテはイリナに負ぶわれる形となった。
 小柄な少女に突然の行動に絶句していると、「つかまる!」とまるで叱責されるように言われ、首にしがみつく。その途端にイリナは走り出し、マルテが来た坂道を尋常ではない速さで駆け下りていった。
 まるで落ちるように駆け下りていることにより、身体の中の臓物が浮き上がるような気持ち悪い感覚に見舞われ、マルテはイリナの首にしがみつく強さと同じくらい強く歯を食いしばった。

「木、当たる!」
「え?」

 イリナのいきなりの言葉に意味がわからないまま前方を見ると、すぐ先は右へと緩く曲がる道になっていた。しかし、イリナはそこを曲がろうという素振りを見せない上に速度を落とそうとすらしない。
 大木が目前にまで迫り、ひゅっと息を吸い込みながら思わず右腕をイリナの首に強く巻きつけ、反対に木に左腕を打ち付けないようにイリナの肩から離した。
 木にぶつかる直前に身体を強張らせて目をつぶり、本能的に左腕を顔をかばうように上げた。

「……っ」
「っ! イリナ殿?!」

 顔を守る代わりに木に左腕を思い切りぶつけたマルテだったが、左肩で全てを受け止めていたイリナはマルテの比ではなかったようだ。ぶつかった時の衝撃の大きさと、歯を食いしばったために浮かんだイリナの首の筋を見て、その痛みの大きさを知った。
 木にもたれかかったまま、イリナが大きく息を吸ってまるで吼えるように叫んだ。

「ウィドぉ!!逃げる!」

 ウィドに警告するために木に体当たりしてまで止まろうとしたらしい。
 ウィドの名が出てきたので前方をよく見ると、確かに遠くに人影が見えた。
 どうやらイリナの声が聞こえたらしくすぐさまウィドは馬に乗り、左手でマルテの馬の手綱を持った。しかし次に振り返ると何故か動こうとせず、イリナとマルテの方に向けた顔は呆然としたような驚いたような表情で大きく目と口を開いていた。

 ――後ろを見ている?

 突然轟音がした。
 後ろを伺ってみると、遠くの地面が動いていた。川の水か何かのように滑り落ちてくる地面は、遠くから見るとひどく緩慢な動きに見えた。しかし実際は違った。イリナ達をあざ笑うかのように 猛然と迫ってきていて、その先触れと言わんばかりに大小様々な石が転がり落ちてきてイリナ達を襲おうとしている。
 イリナが再び走り出し、前を見るとウィドもすでに馬を走らせていた。

「その先は右へ曲がってください!」

 そうすれば、落ちてくる土砂の横へと逃げられるはずだ。この轟音の中で聞こえたか不安だったが、ウィドはしっかりと右へと曲がるのが見えた。
 イリナがマルテの足を抱えている手に力をこめた。背負われた人がしっかりとしがみつかないと無駄に揺れてしまい、走るときに重心がぶれてバランスを崩しやすいし、足腰にかかる負担も大きくなる。マルテは華奢な少女だということはとうに忘れ、イリナに強くしがみついた。

「イリナ殿も右にっ」

 返事はなかったが、ちゃんと伝わっていたようだ。緩やかに右へと身体が傾いていった。そして右手をマルテの足から離したかと思うと、道の側の太い一本の木の幹を掴んだ。

「ぐ……っ!」

 左へと力が加わる。イリナが木の幹を支点にして方向転換をはかったからだ。幹にかけた右手はすさまじい速さで駆けてきたイリナとマルテの二人分の体重を支え、ざりざりと擦れて血を流しながらもぐるりと右へと曲がることができた。
 その遠心力にマルテが振り落とされそうになりながら、山を見上げる。

「イリナ殿!横!!」

 木々の隙間から、黒く大きな影がイリナとマルテに迫っているのが見えた。

 自分の名まえが呼ばれたような気もしたが、それはどこか遠かった。
 緑の雑草の中、一つだけ白い花をつけていた野草が土に押し出されて汚く宙に舞っているのが見えた。その根についた小さな虫が突然のことに驚いたのか、小さな触角をチラチラと覗かせていた。そうかと思うと、さらに上から滑り落ちてきた黒い土がその虫も花も飲み込んでいった。遠い昔に幼い少年が、その白い花の根は火傷に効くと教えてくれた。その少年の名前はなんだったか。

「…マ…ルテ!!手離す!頭まもれ!」

 唐突に遠かった声が近くなり、マルテは轟音と供に降りかかってきた土砂から頭をかばった瞬間に放り出され、宙に浮かぶ感覚がした。どちらが空でどちらが地かもわからないままに地面に背中をぶつけて着地し、そのままぬかるんだ緩い斜面を転がり落ちて肩を木に強くぶつけた。頭にまで響くその鈍痛を身を固くしてやり過ごした後に、飛び起きてイリナを探そうと立ち上がろうとしたが足に力が入らなかった。

「イ、イリナ殿、大丈夫か」

 ずきずきとする肩と頭を押さえて、とりあえず声を掛けてみるが返答が無い。その代わり、自分達を呼ぶウィドの声がした。

「こ、ここです!」

 足音が近づいたかと思うと、「大丈夫か!」と声をかけながらウィドが駆け寄ってきた。

「私は大丈夫です。それよりイリナ殿は……」
「あー……、あ!あそこにいる」

 ウィドがすぐさま立ち上がって駆けていったが、マルテからはイリナの様子は見えなかった。
 少しずつ足に力を入れながら立ち上がり、身体についた泥を払いながら来た道を見てみた。どうやら本当にギリギリだったようで、すぐ近くの道まで土砂で埋まっていた。あの時あの洞窟の中にいたままだったら、恐らく今頃生き埋めだっただろう。 そう考えると薄ら寒くなって身震いがした。それにしても麓の方は大丈夫だろうか。

「マルテ」
「はい」

 返事をしながらウィドとイリナの方へと向かうと、ウィドの腕には気を失っているイリナがいた。

「命に別状はなさそうだ。ちょっとイリナ殿を見ていてくれないか。俺は馬を連れてくる」
「はい」

 ウィドはマントを地面に敷き、その上にイリナをそっと横たえると駆けていった。
 イリナは草の上を転がったらしくマルテのように泥まみれというわけではなかった。しかし何かで切ったのか、こめかみと左の二の腕に切り傷があった。そして、先ほど幹を掴んだときにできたと思わしき右手は無残に皮膚がめくれ上がっていた。
 二の腕と右手には、ウィドが応急処置として止血をほどこしたらしかった。

「こめかみの傷、跡が残らないといいが……」

 そっと指で顔の汚れをぬぐっていると、必死に鳴きながらホムラがイリナの元へと駆けてきた。そしてチィチィと鳴きながらイリナの顔に乗りあがりしがみついている。

「こら。顔に乗るんじゃない」

 ホムラの首根っこを掴んで、ぽいっと投げると、ホムラはコロコロところがり岩にぶつかって止まった。それで諦めるかと思えば再びイリナの元に 駆け寄ってくる。再度同じようにどかしてもまた戻ってくるのだ。

「お前、だから顔に乗るんじゃない!」

 マルテの怒りなど構わずに相変わらずホムラは鳴き続けていて、あまりの必死さにさすがにマルテも気がそが、結局は好きにやらせるようにした。

「ん……」

 マルテに抱えられていたイリナが身じろいで、うっすらと目をあけた。その事に気づいたホムラがいっそう必死に鳴いて自分の存在を 示そうとしていた。

「イリナ殿、大丈夫か」

 マルテも思わず声を大きくしてしまう。

「痛い」
「頭はどうだ? 打ってないか?」
「ここ、痛い」

 右手でこめかみを触ろうとしたのか、少し動かそうとして痛みに眉をしかめた。

「中隊長が馬を連れ戻して来たら、一度麓まで降りよう。医者に見せなくては」
「村、医者いない」
「隊に医者はいる」
「そう。それは安心」

 馬の足音がして、振り返ると少し興奮した二頭の馬を連れたウィドがいた。

「いやぁ、こいつら興奮していて大変だった」

 ウィドは自分の馬を落ち着かせるように撫でた。

「さすがにイリナ殿も走れないだろう。私が乗せていこう。お前は肩を痛めているようだが……大丈夫か?」
「はい。手綱を握るくらいならなんとか」
「それなら早速出発しよう。被害がどの程度か気になる」

 土砂崩れが起きたのは駐留地の真上ではなかったが、広範囲で土砂崩れが起きたなら、怪我をしたり死者が出ている 可能性もある。

「そうですね。イリナ殿、少しきついかもしれないがすぐに移動をしたい。よろしいかな」
「うん」

 マルテとウィドが補助をしてイリナを馬に乗せ、焦る気持ちを抑えながら麓へと戻った。

  BackNovelTopHPTopNext