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それはきっと、幸せの音 |
一話完結 |
暗い無人のキッチンに一つの人影が静かに入ってきた。 がさがさ 同じく静かに人影がキッチンを去り、気配が遠のくと、途端に静かだったはずのその部屋が騒がしくなる。 「……お冷さん、ご主人はこんな夜中に何をこそこそとしていたんだい?」 冷蔵庫のお冷さんと、炊飯器のスイさんは同じ時期にこの家に来た上に、同郷の出ということもあって、二人は仲がよく、しょっちゅうおしゃべりをしていた。 「ところで、なんであんな高いチョコレートを買ってきたんでしょうかね? 結構量もありましたし。確かご主人は甘いものがそれほど好きではないはずでは」
興味津々に二人の会話に入ってきたのは新参者の置時計だった。 「せん、あのチョコレートはそんなに上等なものなのかい?」 せんと呼ばれた置時計は、ご主人がゴルフの景品で貰ったとかでこの家に来た。初めてのときに「私のことはセントミカエルとお呼びください」と自己紹介をしたが、皆に、長すぎる!と一蹴さた過去がある。「そんな」と渋るせんに、だったらセントミカエルのセンを取ってせんと呼ぼうということになった。周囲の電化製品達はなかなか良いと満足げだったが、一人せんだけは不満そうだった。だったらせめてミカエルのミカの方を使ってほしいと主張もむなしく、せんという名前が定着してしまった。 「あれはゴディバとかいう高級なチョコレートですよ」 自信満々にせんは答えた。 「じゃぁ、なんでご主人は好きでもない高いチョコレートを買ってきたのかねぇ?」 少し離れたところにある電話機のでんさんが、子どものような高い声を張り上げた。 「そういえば、喧嘩していたねぇ」 スイさんは「そうだったそうだった」と思い出したかのように答えた。 「どういうことですか?」「せんはご主人とみっちゃんが喧嘩したときには、この部屋にいなかったっけね」 「あれは、三日も前のことかなぁ。みっちゃんがお風呂に入っている時に、キッチンに置いてあったケイさんに着電があってねぇ」 ケイさんとは、みっちゃんの携帯の名前だった。 「随分長い間呼び鈴が鳴っていて、気になってしかたがなかったご主人が思わず電話口に出ちゃったんだよぉ」 みっちゃんはまるで火花を散らすかのごとく怒ってしまい、なかなか許してくれないとか。 「三日もですか……随分と長い喧嘩ですね」 でんさんがしたり顔で言う。 「反抗期?」 せんは、年若いためか妙なものを知っているわりに、人の生態には詳しくない。 「人間の子どもが一時的にかかる病みたいなものさ。あれにかかると、どんな些細な事でも怒りの種になっちまう、難儀な病だ」 せんは新参者の遠慮か、みっちゃんのことをお嬢さんと呼ぶ。 「まぁ、時間が経てば治るもんだがな。それでも娘に嫌われたとしょげるご主人は、見ていて辛いものがある」 翌朝、みっちゃんが起きた頃には、ご主人はもう既に会社へと出勤していた。ご主人は朝早くから夜遅くまで、熱心に働く働き者だった。 「いってきます」 というみっちゃんの言葉だけが、静かな家の中にいつまでも残っているようだった。 「その柱、何かあるのかしらぁ?」 お冷さんの方からは柱がよく見えない。 「その柱には傷跡あるんだが、それはみっちゃんが小さいころ誕生日に毎年、自分の背と同じ高さの位置に印をつけていたんだ」 昔を懐かしむようにでんさんが言った。 「あの時には、ゆいさんも生きていたからなぁ」 ゆいさんとは、みっちゃんのお母さんの名だった。古株のでんさんが、みっちゃんのお母さんのことをゆいさんと呼ぶから、それにならって他の電化製品達もゆいさんと呼ぶ。 「誕生日を祝って、ケーキを食べる前にあそこに印をつけていたんだ」 しかし、もうゆいさんはいない。本当に些細な事故で、寒い冬の日にあっけなく死んでしまった。 「あんときの第一報はさ、おいらが受け取ったんだ」 でんさんが、ぽつりと当時を思い出すように言った。 「あんとき、ご主人の血の気が引いてく様をみっちゃんと一緒に身近で見ていたんだけど……もう二度とあんなの見たくない」 慌てて出かけたご主人が泣きはらした目をして戻ってきたのは、次の日の朝だった。それから人が出たり入ったりしてしばらく家全体が落ち着かなかったが、それが過ぎるとまさに火を消したように静かになった。 「でも……今でも、みっちゃんも、ご主人も、おいらが呼び鈴を鳴らすと、おびえたような、悲しいような目をするんだ」 それはやっぱり辛い、そうでんさんはぽつりと呟いたが、誰も声をかけることができなかった。 あいもかわらず、二人の不和は続いていた。 本当は皆知っていた。みっちゃんは、もう携帯電話のことでなんて怒っていない。ご主人が朝早くから夜遅くまで働きづめであることと、何日も一緒にご飯を食べることができていない事に怒っているのた。ご飯もあまり食べずに残しているから、心配でたまらないのだ。 電化製品達は、すれ違ってばかりの父娘におろおろとするばかりだった。 「いい加減、仲直りをしてほしいねぇ」 「ご主人もなんだか顔色が悪そうですね……」 日々顔色の悪くなるご主人と、日々機嫌の悪くなるみっちゃんを見て、電化製品達は毎晩相談をしあっていた。でもできることなんてほとんどなく、無意味な繰言を繰り返すだけでしかなかった。 「こういう時に相談できる相手がいるのは心強いものですね。私一人だったら無闇に不安になって秒針が狂っていたかもしれません」 みっちゃんのお友達が来たときに、一緒についてきたケイさんのご同業の子から聞いた話では、そのお友達のおうちでは、新参者と古参者とで派閥ができているらしく、なかなか口をきかない、という話だった。 「古参といっても、この家の電化製品に比べたらまだまだひよっこと同じくらい若い子みたいだけどねぇ」 いつものようにご主人が夜遅くに帰宅したが、少し様子が違った。 「ご主人? ご主人?!」 しかし、いくら心配をしたところでどうすることもできない。無意味にブーンというモータ音を鳴らして不安を落ち着かせようとするが、あまり効果はないようだった。 「みっちゃんが降りてきてくれないものか」 パニックになっているキッチンに、突然呼び鈴が甲高く鳴り響いた。それは今までずっと黙り込んでいたでんさんだった。 「こんな時間に電話……?」 しかしその鳴り方はどこか尋常じゃなく、鬼気迫るようなものだった。 「でんさん……?でんさん?!あんた!もしかして、着電もないのに呼び鈴を鳴らしているのかい?!」 制止の声がかかるが、まるで狂ったかのようにでんさんは高らかに呼び鈴を鳴らし続けた。 「お願いだからやめておくれっ」 そのときに、ぱたぱたと階段から足音が聞こえたかと思うと、眉をしかめたみっちゃんがキッチンに入ってきた。 「こんな夜中に……」 途端に呼び鈴は止まった。しかし、みっちゃんはそんなことに気づいている様子はなかった。 「――おとうさんっ!!」 その後、でんさんにかじりつくようにして救急車を呼んだみっちゃんは、泣きながらお父さんの付き添いで救急車に乗って、病院へと運ばれていった。 まんじりとしながら長い夜が明けて、朝になるとみっちゃんが、目を泣き腫らしていたが、どこか安堵の表情をしながら家にもどってきた。ばたばたと保険証やご主人の服をバッグにつめている。 「どうやら、ご主人は助かったみたいだよ」 しかし、でんさんからの返事はなかった。 「でんさん、やっぱり疲れちゃったのかねぇ」 みっちゃんが、ご主人のカップを取ってキッチンから出ようとしたときに、チンと一つ、呼び鈴が鳴った。みっちゃんが振り返ってでんさんを見つめると、手を伸ばして優しげに撫でた。 「――ありがとう」 そう呟くみっちゃんの目は温かかった。 「お嬢さん、でんさんの呼び鈴の音を聴いても、怖がるような悲しむような目をしていませんでしたね」 でんさんが静かに笑った気がした。 でんさんはリンリンと呼び鈴を鳴らしていた。ゆいさんが空からひとりぽっちで家族を見守っている様が寂しそうで、それならば少しは明るくしてやろうと、精一杯楽しげに鳴らしていた。 しばらくは二人だけだけど、いつかお冷さんも、せんもスイさんも、そしてご主人もみっちゃんもここにやってくるだろう。もしかしたら、せんは一人遅れてくるかもしれない。何せ100年も動いていた時計の歌もあるくらいだ。大事にされたらそれ位長生きするかもしれない。
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